作家になるためには30冊だったか50冊だったか100冊だったかの本を読め、みたいな話を最近どこかで見かけました。あれ自体は、素人に与える助言としてはとても意味のあることだと思っていて、というのは、自分で小説を書くようになって気づいたんですけど、そもそも一人の人間が書けるものの幅ってものすごく狭いんですよ。

 自分でいうと、読み手としてはクリスタル・ドラゴンの昔から異世界ファンタジーが大好物なんですが、まあとうてい自分では書けません。というのは、たとえば異世界ファンタジーが椅子が出てきたら、その椅子の材質はなんであるのか、足は本当に4本でいいのか、そもそも椅子という文化がそこにあるのか、ということでまず躓いてしまう。そんなんいちいち設定すりゃえーやんって話なんですが、俺はドアノブでも床の木でも味覚でも調味料でも全部で引っかかってしまう。もちろんこれをすべて設定してまうキチ失礼設定マニアという人種も存在しないのではないでしょうが、俺には無理です。そこまでの情熱を注げません。

 そうやって考えると、俺にとって「絶対に」異世界ファンタジーでなければいけない理由って特になかったんですよね。物書きとしての体質の問題ももちろんあるんですが、そういう困難を越えてでも異世界ファンタジーを書きたいという理由がない。

 じゃあって考えると、自分にとって書きたいものって、要するに女の子がかわいい、その女の子が主人公のこと大好きすぎてもう大変、しかない。もちろんそれ以外のものも書いてはいるんですけど、そのときは「それを書かなければならん!」という強い欲望に動かされてるので書けるわけです。あと中編くらいならさほど力まずに書けるだけの慣れが出てきたから。

 結局あれなんですよ。素人が「長い文章を書く」という困難を乗り越えるためには、自分にとって最適の「本当の」テーマを見つけなければならない。そうでないとモチベーションが続かない。そういう意味で「大量に読んで気になったとこまとめろ」というのはとても適切な指示ではないかと思ったわけです。

 

 さて、その「大量に読む」ですが。

 俺の主戦場はエロです。アクセスからもブックマークからも、エロのほうがもともと伸びやすいというのを飛び越えて有意にエロのほうが伸びる。

 俺は、自分に小説に向いた資質があるとした「文章を大量に書ける」ということだけだと思ってます。それ以外はほんとになにもかもが向いてない。しかし天は我を見捨てずです。俺にはエロを書く才能がたぶんあります。エロシーンだけは確実に書けるほうだと思うんです。

 なんでかなと考えると、俺もともとエロ漫画が大好きなんですよ。抜くとか抜かないとかそんな以前に、とにかく大量にエロ漫画を読む。いまとなっては勉強のために読んでいる側面もありますが、エロというだけで読む敷居が大幅に下がる。

 自分がエロシーンに関してだけはある程度の自信を持っているのは「書いていてほとんど苦労がない」というのもその理由です。もちろん出来不出来は読者が判断するものですけど、アイディア出しで苦労した記憶がほとんどない。なぜそうなのか。それは俺がエロの達人というわけではなく、単純に大量のエロ漫画を読んでるからだと思うんですよ。オリジナリティもクソもねえ。俺の脳には、過去に読んできた何百本とないエロ漫画の記憶が「なんとなく」存在していて、必要なときに「こんな感じの展開で」と情報を引き出せるわけです。さらに重要なのは、俺には性癖の偏りがあることです。具体的にはヒロインがちっちゃければちっちゃいほどいいです。最近のアニメでいうと、幽霊ちゃんはちょっときついかなと思ったけどアーニャはいけます。頭身や年齢の問題じゃねえんだよ。

 つまり、自分の側に確固たる、ちっちゃいこ好き、おしっこ好きなどの性癖があることにより、それを軸に大量のエロ漫画を批判的に、かつ学習的に読むことができる、という側面があるわけです。

 

 こうした自分の経験から、読書量というのはいくらあっても邪魔になるものではない、というのが俺の個人的な意見です。

 とはいえ、エロはまあ、自分が経験してなくても書ける、というか王女様のロイヤルバスマットになって王女様のおしっこかけられる経験とかしようもないわけなんですが、小説一般、特に感情の部分では、読書ではなく自分の経験が核になる、というどうしようもない事実はありますね。いいですよね、高貴で汚れを知らない王女様のバスマットになっておしっこ浴びるの。そしてしつこいようですが、俺の来世はひだまり荘202号室のお風呂の排水口です。あれからもう何年が経過しているのかわかりませんが、いまでも俺はゆのっちはお風呂でおしっこしてる派だと信じています。あと人間化したフィーロは総排泄孔を持っているとも信じています。これは信仰なので証明の必要はありません。