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 ウェブコミックのサイトでとりあえず百合作品でなんかいいのないかなーと思ったら「こんにちは わたし炭鉱爆薬の硝安ダイナマイト」というすさまじい一文で始まるマンガを見つけてしまい、なんだなんだと思ってサンプル読んだらすごくよかったです。というより、謎にずっと涙腺が爆撃されっぱなしでした。

 まあこの手の作品に目が止まる人は、たいていびんちょうタンのこと思い出すと思うんですが、作品の性質としてはぜんぜん違いますね。

 あ、ネタバレ含みます。

 要素としては、もちろん非生物の女の子擬人化作品であるということ。それと、軍艦島が舞台であるということで廃墟ものの要素ももちろんあります。

 ただ俺、読んでる途中にずっと連想してたのが綿の国星なんですよ。共通しているのは「人間じゃない存在の視点を借りて、人間の社会を新鮮なものとして描写する」ということです。まれびとっていうんですか、まあこういう構造の作品は連綿と存在してるわけなんですけど。

 しかし視点となっているものが違う。綿の国星の場合、まあご存知の方には言うまでもないんですが、擬人化された猫ですよね。ただしこれ、厳密に猫というわけではなく「擬人化された猫」のなかに詰め込まれたものがなんであるか、という話です。まあこのへん議論するなら、それなりに過去の評論を参照してこいよ、というでけえ話になるわけなんですが、ま、大雑把にいうなら猫であり、少女であり、子供でしょう。あの時代では、擬人化という手法で「チビ猫」という視点を確保したことじたいが最大の発明であったといえるんじゃないでしょうか。ただ、あの方法論の開祖だっただけあって、いろんなものが未分化に詰め込まれた、なんかよくわからないものでもあります。

 ところが時代は流れて、この作品の1巻が刊行されたのが2020年ですか。この擬人化という手法も完全に手垢がつきまして、さらにそこに萌えという文脈が絡んでくるわけです。実際この作品も、絵柄的には萌え4コマのひとつでしょう。また作品のキャッチコピーとしても「かわいそかわいい」というのを採用しているので、想定される消費者像もそんな感じなんでしょうね。実際俺もそうですし。

 ただ、手垢がついてるということは、手法として枯れているということでもあります。存分にメタ化して使うことができる。人間のかたちをとりながら、思うぞんぶん「人間ではない」視点を確保することができる。ここが圧倒的に新しいですね。つまり、主人公であるしょうあんにとって人間に関するものはすべて斬新であり新鮮である。どんな些細なことに驚いてもおかしいことはなにもない。

 ただ、ここで妙な逆説が発生します。作品の舞台は軍艦島です。人間が去って終わってしまった世界です。しかししょうあんはそれを明確には認識していない。「ここには人間がいないだけ」と認識している。おそらくその状況でお話を進める必然があって、この作品では地の文的なものが採用されています。この「知らない」がゆえに「終わった世界」である軍艦島に関してなんら悲観していないしょうあん、そしてそれを解説で補佐する地の文。こうしたものによって、この作品の筆致は徹底的に乾いている。作品の最初のほうで出てきたさくらがしょうあんを物陰からずっと観察していたように、作者の目線からいっても「だれもいない軍艦島で自我を持ってしまったしょうあんかんさつにっき」なんですよ。廃墟といい、たったひとりの境遇といい、題材のすべてが湿ってるんですが、筆致だけは乾いてる。そうなると、逆に、崩れていくだけであるしょうあんの世界が浮かび上がってくる。環境も、小道具も、すべてが感傷を誘いかねないなかで、萌え4コマ的な文法で描かれた「明るい感じ」もあいまって、よけいに終わってしまった感じが強調されてくる。

 作者の意図なんかわかりようもないですし、考える趣味もないんですが、登場するゲストキャラが、しょうあんの環境では得られないものを残して次々と消えていくことを考えると、この乾いた感じはかなり意図的なものであるように思えます。

 そして、お話のラストがめちゃくちゃ構造としてきれいです。しょうあんが「さびしい」という事実に気づいてしまう。作品世界の瓦解です。瓦解は、オチです。なので、お話はこれで終わるわけです。まあほんとのエンディングとしては「いつか人間と同じ日々を」というとこですけど、そっちはわりとどうでもいいですね。

 

 というわけで、なにげなく読みはじめた作品ではありましたが、奇妙なくらい重い手応えを残す作品でもありました。

 というより個人的に、この、エモいテーマを乾いた筆致で描く、というのはいつかやってみたいことでもあります。人は選ぶとは思いますけど、これはおすすめですね……。