床屋行ってきたんすよ。休みだし。

 水曜の午前中っていうタイミングにもかかわらずやたら混雑してて、4人待ちで1時間くらい待たされたのかな。やることも特にないしこのあいだからずっと読んでるけどなかなか進まない、けっこうおもしろいのに俺とは徹底的に相性が悪いラブコメの商業ラノベを読んでました。ついに読了したんであとで感想書くつもりですけど。

 ふだんの生活が夜型なので、平日の午前中ってほとんど活動してないんですけど、床屋にいる人たちのメンツを見てると、意外に平日休みの人って多いんだな、という感じで、三十代とかの男性が多かった。待合スペースで隣に座ってる三十代前半くらいの男性は「お金のほうから寄ってくる」みたいなタイトルの本読んでて、なんか大変そうだなとか思いました。俺の知ってる限りでは、お金はお金をつかう人のところに集まってくるので、あとは使うタイミングと場所の問題かなと思いましたけど、たぶんそんなようなことが書いてあるんじゃないかなと思いました。

 待合スペースにはテレビが置いてあって、午前中なのでまあそんな感じの番組が流れています。よくわかんないけどジャニーズ事務所の人と思われるタレントさんが体操やってて、ジャニーさんとの思い出とか聞かれてました。俺にしてみれば、ジャニーさんという人もそのタレントさんのことも知らない人なので、そんな情報が流れてきてもまあしかたないんですが、テレビって画面の編集うまいなと思いました。ふだんYouTubeの動画くらいしか見ないので。

 で、ようやく自分の番が来ました。着座するとまずはふくらはぎのあたりに空気の力で伸縮する、なんだ、血圧計の腕に装着する部分みたいなやつを巻かれたんだけど、巻いてくれたおばちゃんが不慣れだったのか、なんかふくらむ部分がふくらはぎじゃなくて脛を圧迫するんすよ。微妙に痛い。とはいえそれをすぐに伝えられるタイプでもないので黙ってます。俺の目の前に「施術中は会話を控えております。ご協力ください」って書いてあるし。

 昨今、二十代男性だとある程度スキンケアするのが常識みたいなとこありますけど、俺はおっさんなのでそういうこともせず、床屋に行ったときに全部やってもらう昭和スタイルなので、総合調髪です。なんかね、角質ケアとかもしてくれるらしいの。

 どうも俺のあとに床屋に入ってきた人は「すっげー待ち時間長くなるからまたあとで来て」と追い返されてたみたいで、だんだん若い人か帰っていって、店内には、おっさんの俺以外は、理髪師さんも含めておじいちゃんしかいない空間が出現しました。俺の世代、けっこう人数多いですから、いずれ俺が70歳になったころには、こういう空間の主成分になるのかな、なんて思いながらバリカンで髪を刈られていました。

 エロ小説の連載で、まだ手をつけてないシチュとしてアナル挿入と剃毛があったんですけど、このあいだアナル挿入に関してはうまいアイディアを思いついたんですよ。椅子に拘束されているあいだほかにやることもないので、そのアイディアを膨らませていたんですが、そのときBGMでスピッツの「チェリー」が流れてきました。それ聞いてるうちにふと思ったんですよ。この曲なんかスーパートランプのブレックファスト・イン・アメリカに雰囲気似てねえかなって。曲調とかコード進行とかぜんぜん別物なんですけど、なんとなく。それでいうと「空の飛び方」はトム・ペティのなんかの曲にわりと雰囲気が似てて、まあ草野マサムネって人、70年代の洋楽をかなり聞いてるっぽくて「ハニーハニー」なんかは完全にアバを意識してるよなーなんて考えてました。

 その次はスキマスイッチだったかな。なんかバラードっぽい曲が流れてきて、一青窈とか、まあいろいろかかってた。最近、90年代とかゼロ年代のヒット曲があちこちでBGMとしてよく流れてる気がします。

 やがて、米津玄師がかかってきて、あーやっぱこの人自分が言うだけあってメロディラインだけで一発でこの人ってわかるよなあと思ったら次がシャルルのボカロバージョンで、そこから流れるようにうっせーわになった。

 平日の午前中の床屋。店内にはおじいちゃんばかり。その状況で流れてるボカロ曲やうっせーわ。これだれのために流れてんのかな。よくわかんねえな。だってここにいる人、俺以外だれもシャルル知らないだろ。あとテレビショッピングのテンションの高え声とごっちゃになってるとちょっと気持ち悪いな。

 けど、そこでふと思ったんすよね。そもそも流行歌ってこういうもんだったんじゃないのかな、と。特にだれが聞くでもなく、どこでも流れてて、知らずしらずのうちに人の耳に入っていく。それはおじーちゃんしかいない床屋でも、もうじき3年ぶりに林立するだろう海の家でも、ひょっとしたら車で送ってったやれるかもしんない雰囲気の車内でもかかってて、きっといくつかの印象的な瞬間にも流れていて、それが時代の記憶になっていく。そういうありかたで存在してたんじゃないかな。

 テレビやラジオといった、大文字の「メディア」というものが死滅してひさしいとは思うんですけど、それでも音楽ってどこということなく流れているものなんじゃないか。そんなことを思いました。

 

 床屋から出て、どうもリストレストの高さがあわなくて調節したいなと思ってて、その足で百均に行ってきました。俺、親指シフターなんですけど、この人種ってキーボードに対する手の構えかたとか、手首の位置とかぜんぜん違うんですよ。いま使ってるリストレストじたいは気に入ってるので、これを流用するには嵩上げするしかない、というわけです。そんで5種類くらいのゴムシートとか滑り止め的なものを買ってきて、百均を出ました。

 気温は高く、さりとて日が差しているわけでもなく、ならいっそ雨でも降ればいいものを、空はただ灰色に沈んでいる。

 加齢にともなって人はだんだん花鳥風月に近づいてくもんだと思うんですが、こんなどこにでも転がってるような水曜日のとある日が、この世界には無数に転がっていて、当事者しか知らない小さなドラマが生まれている。そのすべてを知ることが原理的に不可能であるということは、俺が物語というものを愛する理由のひとつかな、と思いました。