夏ではない季節に、夏が舞台のお話を書いている。

 不思議なのは、夏なんかもう何十回となく経験しているのに、書くたびに夏とはどんなものだったか忘れている。もちろん記憶や定義、概念なんかは把握している。けど、正確じゃない。なにかが足りない。季節が関わってくる小説で「いまじゃない」季節を書くと、毎回のようにそういう現象にぶち当たる。

 夏は暑い。そりゃそうである。しかしその暑さはどのようなものだったか。じっとしていても汗が滴り落ちる。まあそうである。しかしそれはどこから? 額から? わきから? じっとりと蒸れた靴のなかを真っ先に認識するの? 直射日光の強さ?

 答えは「ケースバイケース」ということになる。日陰にいるのか日向にいるのか、海辺なのか山奥なのか。そういう登場人物がいる場所ごとに暑さの性質は変わってくる。もっといえば心理状態すら影響してくる。

 こうして「そのシーン」における暑さというものの性質は一回性のものとなる。

 想像で書いていると、その一回性に追いつけない。

 取材っていう手段は、こういうことのために必要なのかな、とふと思った。つまり、リアリティの底上げだ。

 

 もっとも、実際には話は逆なのかもしれない。町を歩いているとき、バイクで移動しているとき、そのときに感じた「なにか」がある。それをなんとか表現したい。そうなったときに、俺には文章以外の手段がない。なかんずく小説である。

 知人に、たまに「女の子を立たせたい風景」というテーマで写真をアップする人がいる。毎回よくもまあ見つけてくるな、というくらいうまい一瞬を切り取ってくるのだが、そういうものに対する感光膜は、持っている人とそうでない人がいる。持っている、というのはつまりそういうことではないか。その一瞬、そこに女の子が立っていたときに始まる物語。そういうものを幻視する能力。

 

 今日、30度を越えた。たぶん今年初だ。

 夏が来た。反射的にそう思った。

 実際には梅雨の晴れ間というやつなのだろうが、そう思ってしまったものはしかたない。その空の青さ、むわりとした空気、まぶしさ。そういうものが一体となって「ああ、夏なんだ」という感慨をかたちづくる。いま、このとき以外に感じないその感覚を、俺はどうにかして文章にしなければならない。

 たぶん、なしとげたと思う日は来ないんだろう。