世はラブコメ大戦国時代である。

 俺はおっさんなので、ラブコメが「ラブコメディ」であり、それが少女マンガにしか存在しなかった時代から知っている。自分の記憶だと、男性向けの媒体にラブコメらしき作品が登場したのはあだち充あたりが先駆けで、あとは村生ミオとか柳沢きみおあたりがごっちゃになっている。まあこのへんの事実関係はどうでもいい。

 その時代から何十年かが経って、いまや週刊マガジンにすらラブコメ作品が複数掲載されている。まじでそんな時代来るとか思ってなかった。

 俺がフィクションを消費する理由のほとんどは「かわいい女の子を消費したい」なので、ラブコメは主戦場である。自分の書いてるもんのジャンルなんぞわからないけど、たぶんそれに含まれるだろう。ラノベの新刊情報は連綿と追ってるけど、ラブコメの比率は上がる一方である。俺にとっていい時代といえないこともないのだが、ひとつ、疑問がある。

 ラノベのラブコメ、そのほとんどがつまんねーのである。

 人があるものをつまんねーと感じるとき、いくつか理由が考えられる。まず実際に作品がつまらない場合。これは作り手側の事情である。

 読み手の側の事情としては、単純な相性問題。それと、俺自身がラブコメに対する感性を失ったから、なんかが考えられる。加齢のほうは、それを問題にするなら、もうずいぶんと前から対象年齢外なので考えないものとする。

 残る理由は相性問題だ。つまり「昨今のラブコメと俺は相性が悪い」ということになる。

 この相性問題って音楽でも発生したりする。「時代が俺にあってない」というやつだ。どんだけ上から目線なんだという話だが、俺はコード進行とハーモニーに偏執的なこだわりがあるので、好みの音楽からヒップホップや女性ソロシンガーがまず外れる。またEDMのような単調なリズムの曲も苦手だ。その一方で極限まで音数を詰め込んだ複雑な構成の曲は大好きなので、その点では日本の現在の音楽状況は好みに合致している。よく「音楽に対する感性が」とか「音楽の黄金期は15歳」なんて話が出たりするけど、俺にいわせるとあれは単に音楽にそんなに興味がないだけである。音を聞くことが快楽に直結している人間にしてみれば、年齢とかほぼどうでもいい要素だ。

 ちょっと話がそれた。

 で、昨今のラブコメなのだが、相性が悪いとしたら、俺がラブコメに求めるものが足りないか、あるいは嫌悪するものが余計に詰め込まれているか、どっちかだと思われる。

 ラブコメのなかでもいちばん「つまらない」と感じるのは、糖分とやらを売りにしている作品群だ。これは、ラブコメ部分以外のサブテーマがないとほぼ絶対に読めない。退屈だからだ。女の子がかわいく描写してある。それを男が好きになった。じれじれしたりもじもじしたりする。だからどうしたとしか思わない。

 が、もともと糖分多めと称される作品は嫌いではない。というか大好物だし、自分で書くものに至っては基本的にヒロインは主人公大好きすぎて泣いちゃう、みたいなのしか書いてない。自分でラブコメ書くようになったきっかけは天使様だし、ずっと友達でいてね云々といういかにもな作品も大好きです。

 じゃあ好きな作品と退屈な作品のどこに違いがあるのか。違いを見出しているのか。

 確実なのは「好きになる理由」ですね。これがないやつはどんなものでも無理。ほぼ問答無用で無理。主人公側の理由はあってもヒロイン側の理由のない作品の多いこと多いこと。多いってことは、たぶんヒロインが主人公を好きになる理由って、別に需要ないんですよね。問答無用で好きであればいい。この手の作品の場合、だいたいは飛び抜けた美少女のヒロインがいて、接点もないのに陰キャ(ないしそれに準じるなにか)の俺を好きらしい、という設定のが多いんですけど、その状況でヒロイン側の「好き」の理由が明かされていなくて、なぜその感情を信じられるのか疑問です。

 別に入試でやさしくされたあと、入学式でいきなり告白してきてもかまわないんですよ。ただそのときはヒロインに「私、ちょろいなあ」とか「だって、しょうがない。声とか、顔とか大好きなんだもん!」とかいう理由の補強は必要です。その程度のことなんですけど、それすらも触れない作品が多い。

 次に、似たようなものなんですけど「好きになる前」を書かない作品が相性悪いです。ストーリー開始時から主人公のことが大好きでも別にいいんですけど、回想シーンなりなんなりで理由は回収してほしい。ふつうに接していた時間、報われなかった時間、片思いしていた時間。そういうのがないとなにも響かない。人間なら、きっとそういう時間ってあると思うんです。

 それと感情の揺れですね。これもたぶん需要ないんだと思うんですが。

 由来、ヒロインってキャラが立ちづらい傾向があると思うんですよ。立場が主人公とのあいだだけで決定されちゃうから。俺みたいに妹専門かよ、みたいな感じで書いてて、そんで妹ってその属性背負ってるだけで自動的に立場が浮かび上がるような作用があるんですけど、それでもヒロイン以外のキャラのほうがうまく書けてるな、と思うことが多い。

 ラブコメの障害要素とキャラ立てを兼ねてのことだと思うんですが、クールなはずのあの子が自分にだけ、とか、自分の前でだけ挙動不審に、とか、そういうのよくあるじゃないですか。あの不自然さがたまらなく厳しい。だって、そんなん人間います? そこまで露骨に二面性あったら、それはもうただのおかしい人だと思うんです。

 もちろんこれも明確な理由、説明となるエピソードなんかがあれば別に納得するんです。けど、その要素って読者にとっては負担になるんでしょうね。最初から「そういうキャラ」ということで押し通されることが多い。これ、あれなんですよ。ヒロインがバカに見えるんですよ。その程度のことも自覚できない人間なの?って。理由が説明されない場合、それはリアルではなくリアリティのレベルで作品にダメージを与えるんじゃないでしょうか。

 

 というわけでですね、結局俺は、ラブコメのヒロインに「まず人間」であることを要求するらしいんですよ。人間だからこそかわいいかわいくないという区別がある。人間として一般的に必要とされているレベルのリアリティを備えていないものは、モノです。機能です。かわいいことをして好き好き言ってくれるだけの道具。まあ接待ですよね、読み手に対する。

 糖分と銘打ってる作品でことのほか俺がつらく感じるのは、ヒロイン側の「好き」という感情が説明されないまま、ただかわいいことして、好きだって思ってて、そしてそんな物体を見て主人公がかわいいかわいい思ってる状況が理解できないからなんでしょう。いちゃいちゃが主成分である以上、それ以外のサブテーマとか別にないわけで。

 まあでも、あたりまえの話なんですけど、母数が増えればおもしろい作品だってとうぜん絶対数で増えるわけで、まだまだラブコメのブームは続けばいいなあと思いました。探すの手間ですけど、そこは厭いません。おもしろいもの読みたいので。

https://ncode.syosetu.com/n0770hr/

 おもしろかったです。

 あ、現時点での更新分すべて読了です。

 基本的にはステイタスチートで最強ってのがベースなんですが、その活用方法がちょっといままでに見たことがないようなものです。最強を目指さない、というだけなら、まあほかにもいくつか読んだことがあるような気がしますけど、結局はチートの能力をどこかで直接的に使っているわけです。しかしこの作品、自分の能力を戦闘にいっさい使わない。じゃあなにやるかっていうと、会社経営です。

 もっともこの作品、ファンタジーのガワはかぶっているものの、実質的にやってることはSFにかなり近いと思います。ダンジョンはあるし、探索者という存在もありはするんですが、高校も大学もあり、料理には筑前煮が出てきて、労基署もあって会社設立もある。つまり、ダンジョンがある以外はほぼ現代社会です。実質的にやっていることはSFにかなり近く、そもそもがSFの方法論で組み立てられている印象を受けました。

 キャラクターの面でも、正妻ポジションが決まってるのに恋人じゃない、妻でもない、というのがちょっとおもしろいです。付かず離れずの関係性、わりと好きなんですよね。そこらへんはあまり焦点が当たってないですが。

 というわけで、お話の中心はチートスキルの謎運用と組織経営なので、そういうのがお好きな方はどうぞ。

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 このバンド! めっちゃいいんですよ!

 なのにいくら探しても日本語の情報がほとんどない! 拡散力なんかまったくねえこのブログですが、書いときゃ同好の士がぐぐったときに「俺だけが聞いてるんじゃなかった!」と安心するかもしれないのでこの記事書いておきます。

 唯一ひっかかる日本語の情報は以下のとおりです。

nichemusic.info

 なるほど。なんもわからん。

 とりあえずですね、次の曲、聞いた瞬間「うおっ」とかなる人かなりいると思うんですよ。

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 これ、この感じ、好きな人は絶対に好きですよね!

 でいま、2021年に発売されたアルバムを聞いてるんですけど、これがまあ、ジャンルがとっちらかっててちょっと一言では表現できない。俺に体系的な音楽の知識がないせいもあって、説明が難しい。

 基本的にはグリーン・デイとかあのへんのジャンルの音楽の影響があるのかな、という感じなんですが、いわゆるブリット・ポップですか、あのへんからオアシスっぽさをマイナスしたような感じもありますし、XTCとかのひねくれポップの素養も感じます。オルタナみもありますし、シューゲの洗礼も受けてんのかな、という感じもあって、つまりごった煮感すごいすんよ。

 ただほぼ全曲に共通してる要素があって、それが明確でわかりやすいメロディとやけくそ気味のキャッチーさ。あと曲が短い。

 音楽って完全なオリジナルとかありえないんで、まあたいていは影響元というか、参照元みたいなのあるじゃないですか。それがよくわからん、というときは作ってる人間が異様な音楽の知識を持ってるパターンですよね。それとバンドメンバーがそれぞれ曲作れる人間で、わりと好き勝手やってるか。

 確実なのは、これ相当のポップスマニアですよ。

 もっと日本で人気出ていいバンドだと思うんですけど、この手のマニアくささってあんがいウケなかったりもしますね……。

 

 サブスクの時代になって、ほんと音楽の聞きかたが変わったと思います。かつて一日中HMVの店内にいて視聴盤を片っ端から聞いたり、それ以前のエアチェックくらいしか音楽情報を入手する手段がなかった時代とかを考えると。

 俺はもともと好みのコード進行とか展開とか決まってて、それに近ければいい曲、という曲原理主義者なんですけど、こういう人間が好きな曲に到達しようとするとほんとに大変だったんですよね。それがいまやパソコンにかじりついたまま世界中の音楽を好きなだけ聞けるわけです。ちょっと前に、なんとなくタイのミュージシャンばっか聞いてたんですけど、あの国、妙にフォーキーでメロディアスな曲が多いんですよね。ちょっとスウェディッシュっぽい雰囲気もあったりして。そういうことが知れるだけでもおもしろい。

 以前から言ってることなんですけど、この時代に浴びるように「好き勝手に自分の好きな音楽を聞いて」育った世代が自分たちで音楽を作るとき、そこにどんなアマルガムが出現するのか楽しみでしかたないです。

 

 あと、最近予備知識なしに知ったミュージシャンとしては、この人がよかったです。

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 オリジナルの太いルーツを感じさせる曲もいいんですけど、俺はこっちをおすすめ。

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 もうね、最高ですこのカバー。

 夏ではない季節に、夏が舞台のお話を書いている。

 不思議なのは、夏なんかもう何十回となく経験しているのに、書くたびに夏とはどんなものだったか忘れている。もちろん記憶や定義、概念なんかは把握している。けど、正確じゃない。なにかが足りない。季節が関わってくる小説で「いまじゃない」季節を書くと、毎回のようにそういう現象にぶち当たる。

 夏は暑い。そりゃそうである。しかしその暑さはどのようなものだったか。じっとしていても汗が滴り落ちる。まあそうである。しかしそれはどこから? 額から? わきから? じっとりと蒸れた靴のなかを真っ先に認識するの? 直射日光の強さ?

 答えは「ケースバイケース」ということになる。日陰にいるのか日向にいるのか、海辺なのか山奥なのか。そういう登場人物がいる場所ごとに暑さの性質は変わってくる。もっといえば心理状態すら影響してくる。

 こうして「そのシーン」における暑さというものの性質は一回性のものとなる。

 想像で書いていると、その一回性に追いつけない。

 取材っていう手段は、こういうことのために必要なのかな、とふと思った。つまり、リアリティの底上げだ。

 

 もっとも、実際には話は逆なのかもしれない。町を歩いているとき、バイクで移動しているとき、そのときに感じた「なにか」がある。それをなんとか表現したい。そうなったときに、俺には文章以外の手段がない。なかんずく小説である。

 知人に、たまに「女の子を立たせたい風景」というテーマで写真をアップする人がいる。毎回よくもまあ見つけてくるな、というくらいうまい一瞬を切り取ってくるのだが、そういうものに対する感光膜は、持っている人とそうでない人がいる。持っている、というのはつまりそういうことではないか。その一瞬、そこに女の子が立っていたときに始まる物語。そういうものを幻視する能力。

 

 今日、30度を越えた。たぶん今年初だ。

 夏が来た。反射的にそう思った。

 実際には梅雨の晴れ間というやつなのだろうが、そう思ってしまったものはしかたない。その空の青さ、むわりとした空気、まぶしさ。そういうものが一体となって「ああ、夏なんだ」という感慨をかたちづくる。いま、このとき以外に感じないその感覚を、俺はどうにかして文章にしなければならない。

 たぶん、なしとげたと思う日は来ないんだろう。

「創作」という単語が異常に嫌いである。もちろん言葉に罪はないし、なんか作ったら創作には違いない。なので、正確にはその言葉を巡って周辺に張り付いている人の価値観、雰囲気というものが嫌いなのだ。

 おまえのやってることはなんなのだと問われれば、まあ客観的に見れば創作活動ではある。そんなことはわかってるが、それを創作と呼ばれると寒気がする。そういうことである。少なくとも俺自身は自分のやっていることを創作とは把握していないことになる。じゃあおまえのやってることはなんなのか。

 これは簡単である。オナニーだ。俺にとって小説を書くことはオナニーであり、それを公開するのだか、つまり自撮りオナニー動画を配信している人間のような気分がある、ということだ。

 

 そもそも創作がよいものだ、とするような風潮がどうにも我慢ならない。ほかの人がそれをすばらしいとするのはかまわないが、俺にはその定義を適用するな、という話だ。

 まず原風景として、俺にとって文章を書くことはずっと排泄とほぼ同じことだった。エサは現実だ。この膨大な情報量を含む現実というもので強制的に肥育されながら、それでも死ぬことをやめられない。それを声にできればいい。だれかと共有できればいい。共感すればいい。しかし俺は共感という機能が死んでいる。友だちというものがほぼいない。原則的には知人であっても、隣で死んでもなんの興味もない。ああ死んだな、くらいの感じだ。しかし「そうであってはならない」というルールがあるので驚いたり悲しんだりする。現実が俺のなかに蓄積していく。自分とは違うルールで動いている社会とやらで腹部が膨満して死にそうだ。

 それを消化するために俺が発明した手段が「文章を書く」ということなのだ。完全なる排泄だ。しかしうんこであっても自分が生み出したものには違いない。「どうだこんなすごいうんこが出たぞ」ということだ。よって、俺がインターネットに文章を公表しはじめたのは、一種の露悪趣味に近かった。

 その後、どうやら俺のうんこにはそこそこの価値があったらしい、ということを知ることになるんだが、まあそれはそれとして。

 ブログをやめて、さてなにを書くか、となったときに小説以外に選択肢はなかった。んで書くようになるのだが、俺はわりとひどい妄想体質である。書くとしたら妄想を具現化する以外に方法論がない。根本的なスタンスはブログを書いていたときと変わらない。俺は排泄しないと死んでしまうから書くのである。要するに書くことじたいが俺のデトックスだ。もしそこに妄想が加わったのならそれは快楽である。つまりオナニーだ。徹底的に自己満足である。

 しかし実際のオナニーが汚れたティッシュくらいしか残さないのと違い、書いた小説はかたちになって残る。なにしろ俺はうんこで成功体験がある。なら、オナニー動画もある程度は価値がある可能性がある。なら、だれかに読んでもらおう。

 俺が小説を公開するのはその理由がいちばん大きい。けど、結局はオナニーなので、あまり拡散されても困る。俺にとっては書く段階で一度完結しているのだ。見られることで興奮する、という性質もない。

 こうして、感想はできるだけほしくないという人間ができあがる。言及すらもいやだ。だれかが見ている、という証拠すらほしくない。けど、数字ならいい。数字が稼げるのは、俺のオナニー姿がえろいという証拠である。なら俺は思うぞんぶんナルシシズムに浸ってオナニーをすることができる。

 

 もちろん実際の俺は、読まれることを考慮して書いてるし、厳密に俺のやってることが自分のためだけだとは思ってない。おもしろくあろうと俺のできる範囲内での工夫もする。だが、多くの人と違い、俺の努力はどこか「よりよいオナニーのために」という雰囲気が抜けない。たぶん俺は、充分に上達しても一定以上の人に読まれることはないと思う。根本的には自己満足でしかないからだ。

 そりゃ創作って言葉なんて嫌いだよなね、とようやく納得しました。はい。

https://www.amazon.co.jp/gp/product/B0B1LS8VR5/ref=dbs_a_def_rwt_hsch_vapi_tkin_p1_i0

 先日購入した本です。

 これはまあ……読むのに苦労しました……。

 読みづらい場合っていくつかパターンがあるんですが、主に作品のほうに原因がある場合と、読み手であるこちらに原因がある場合です。

 作品のほうに問題がある場合は、まあ単純にレベル的にアレだった場合です。ウェブ小説なんかはどうしてもそういうのが混入してますし、商業作品でもまあぶっちゃけテンプレに人間の皮をかぶせたような作品ってのは存在します。まあその場合、なに書いても文句にしかならないので感想そのものを書きません。

 で、この作品の場合、あきらかに後者で、つまり相性がよくなかったです。小説そのものとしては、主人公の心理を丁寧に追う感じです。ヒロインはバカ素直なんで、詮索のしようもない、という話もあります。人の心が読めるという主人公、その状況から必然的に導き出される主人公像。違和感はほぼないです。どうかすると踏み外しが多そうな題材なんですけど、読んでる限り、そういう部分はいっさいなかったです。

 で、ヒロインは「まったく声に出してしゃべらない」という設定で、じゃあどうやって意思表示をするかというと、文字でします。おっさんとしてはその設定見た瞬間「澪! 澪じゃないか! 20年ぶりだなあ!」と思ったわけですけど、ヒロインが使用するのはスケッチブックではなくタブレットで「ああ……20年ぶりだなあ……」としみじみとしたということです。

 

 合わなかった最大の点は、主人公がリア充であることです。ほら、作品にはなんにも責任がない。俺は空気が読めないことでは定評のある人間で、ネット回線越しですら発達障害の気配を察知されるほどです。なので「心が読める」ことから必然的に導き出される気配り上手の世界観はなにもわかりません。

 設定上、一種の万能主人公になりうるわけなんですが、いっそのことそういう装置として機能しているなら、エロゲ類似のものとして割り切れるんですけど、この作品の場合、主人公の内面が大きくクローズアップされている。そこが合いませんでした。

 もひとつ、ヒロインが素直すぎるのも厳しかった。単純にいうと「かわいい」と認識できませんでした。くどいようですが、ヒロインの造形が悪いとかそういう話ではありません。俺の趣味として、内面がきれいすぎるヒロインは厳しいというだけです。落ち着かないんですよね。素直でいい子のヒロイン出てくると腹黒設定加えないと逃げ出したくなる。

 ただこれ読んでて思ったんですけど、ラブコメで、特に複数ヒロインの場合、どうしてもメインヒロインの印象が薄くなりがちってよくある現象だなあと。この作品の場合「しゃべらない」という圧倒的なフックがあるのでまた違うんですが、メインよりサブのヒロインのほうが人気が出てしまう問題、けっこうどこにでも転がってる気がする。俺の場合、ネトゲ嫁がそれで、メインヒロインの亜子は充分に好きなタイプで、しかもアニメ化したときには声が日高里菜っていうエビゾリ絶頂状態だったんですが、それにもかかわらず瀬川のほうがずっと好きだったんですよね。どう考えてもメイン張れる個性は与えられてないのに。

 というわけで、相性がよくなかったよ、という話でした。