「創作」という単語が異常に嫌いである。もちろん言葉に罪はないし、なんか作ったら創作には違いない。なので、正確にはその言葉を巡って周辺に張り付いている人の価値観、雰囲気というものが嫌いなのだ。

 おまえのやってることはなんなのだと問われれば、まあ客観的に見れば創作活動ではある。そんなことはわかってるが、それを創作と呼ばれると寒気がする。そういうことである。少なくとも俺自身は自分のやっていることを創作とは把握していないことになる。じゃあおまえのやってることはなんなのか。

 これは簡単である。オナニーだ。俺にとって小説を書くことはオナニーであり、それを公開するのだか、つまり自撮りオナニー動画を配信している人間のような気分がある、ということだ。

 

 そもそも創作がよいものだ、とするような風潮がどうにも我慢ならない。ほかの人がそれをすばらしいとするのはかまわないが、俺にはその定義を適用するな、という話だ。

 まず原風景として、俺にとって文章を書くことはずっと排泄とほぼ同じことだった。エサは現実だ。この膨大な情報量を含む現実というもので強制的に肥育されながら、それでも死ぬことをやめられない。それを声にできればいい。だれかと共有できればいい。共感すればいい。しかし俺は共感という機能が死んでいる。友だちというものがほぼいない。原則的には知人であっても、隣で死んでもなんの興味もない。ああ死んだな、くらいの感じだ。しかし「そうであってはならない」というルールがあるので驚いたり悲しんだりする。現実が俺のなかに蓄積していく。自分とは違うルールで動いている社会とやらで腹部が膨満して死にそうだ。

 それを消化するために俺が発明した手段が「文章を書く」ということなのだ。完全なる排泄だ。しかしうんこであっても自分が生み出したものには違いない。「どうだこんなすごいうんこが出たぞ」ということだ。よって、俺がインターネットに文章を公表しはじめたのは、一種の露悪趣味に近かった。

 その後、どうやら俺のうんこにはそこそこの価値があったらしい、ということを知ることになるんだが、まあそれはそれとして。

 ブログをやめて、さてなにを書くか、となったときに小説以外に選択肢はなかった。んで書くようになるのだが、俺はわりとひどい妄想体質である。書くとしたら妄想を具現化する以外に方法論がない。根本的なスタンスはブログを書いていたときと変わらない。俺は排泄しないと死んでしまうから書くのである。要するに書くことじたいが俺のデトックスだ。もしそこに妄想が加わったのならそれは快楽である。つまりオナニーだ。徹底的に自己満足である。

 しかし実際のオナニーが汚れたティッシュくらいしか残さないのと違い、書いた小説はかたちになって残る。なにしろ俺はうんこで成功体験がある。なら、オナニー動画もある程度は価値がある可能性がある。なら、だれかに読んでもらおう。

 俺が小説を公開するのはその理由がいちばん大きい。けど、結局はオナニーなので、あまり拡散されても困る。俺にとっては書く段階で一度完結しているのだ。見られることで興奮する、という性質もない。

 こうして、感想はできるだけほしくないという人間ができあがる。言及すらもいやだ。だれかが見ている、という証拠すらほしくない。けど、数字ならいい。数字が稼げるのは、俺のオナニー姿がえろいという証拠である。なら俺は思うぞんぶんナルシシズムに浸ってオナニーをすることができる。

 

 もちろん実際の俺は、読まれることを考慮して書いてるし、厳密に俺のやってることが自分のためだけだとは思ってない。おもしろくあろうと俺のできる範囲内での工夫もする。だが、多くの人と違い、俺の努力はどこか「よりよいオナニーのために」という雰囲気が抜けない。たぶん俺は、充分に上達しても一定以上の人に読まれることはないと思う。根本的には自己満足でしかないからだ。

 そりゃ創作って言葉なんて嫌いだよなね、とようやく納得しました。はい。