tadeku.net

 読んだ。

 純文学というものがどこに存在するのか俺は知らんのだが、文学というものに関してなら個人的な印象はある。

 そもそも原風景として、小説にジャンルなんてものが必要なのか、ということである。書く人間はなにやったって書くわけだけど、なぜ書くか、というその動機の部分が重要だと思う。もし書く理由が、その人にしか通用しないテーマで、けれどそれをどうにかして表現しないと死んでしまう、しかも方法として文章しか持ってない、そういうときに、メディアが文章であればなにやってもよい、とにかく手弁当でどうにかするしかないんだ、となったときに、そこに自動的に文学が発生するはずだ。そういう意味で俺は「純文学」というジャンルにかなり懐疑的だといってもいい。

 こういう把握のしかたなので、文学は別に純文学にだけではなく、エンタメの土俵でも充分に成立すると思っている。最近の例で、俺がまぎれもなく文学だと思ったのは、俺ガイルで八幡が「本物がほしい」と言った瞬間だ。あれは、あのキャラクターで、あのやりかたでないと発生しない一瞬だった。まあ俺はあれ以降は読めてないので、その後どんな着地をしたのかは知らないんだけど。エンタメ的着地ってやつはやっぱりあって、多くの人が納得できるようなエンディングなら、それはエンタメ的だと思う。しかし「そうではないのだ。まだ先があるのだ」とやり通した奇妙な作品があって、それは「AIR」というエロゲだった。ネットジャーゴンになったくらいだけど、俺はあれはまぎれもなく文学だったと思っている。あのやりかたで、ああでないと到達できない場所に、だれの共感も得られない場所に飛び出してしまった。いやまー、実際は泣きゲーって評価の枠に収まるんだと思うんですけど。理屈と膏薬はどこへでも付く系の話ですね。

 で、こう考えてくると、投稿サイトと純文学とやらの相性は最悪というほかない。なぜなら読者が少ない。めったくそ少ない。エンタメがエンタメたりえるのは、それが商売になるからだ。なぜ商売になるかといえば、それを望む人が多いからだ。ところが文学というのはそういうものではない。書く人にとってのテーマを、その人にとってはそうでしかありえない、こういうかたちでしか表現できないというやりかたで書いたものが文学なのだから、間口が広いはずがない。ただ、だれかには刺さる。確実に、深く、鋭くぶっ刺さる。投稿サイトにもきっとそういう作品はあるんだけど、探すほうが大変。逆に探す方法があればいいのかもしんないけど。

 

 それでふと思ったんですけど、自分の主戦場ってエロ小説なんですが、かなり間口の狭い性癖寄りのやつ書いてるんですよね。でも見つける人はどこかから見つけてくる。まあエロの場合「それでしか抜けない」という偏りと熱意が発見を可能にしてるんだと思うんだけど、文学にもきっとそういう側面があるんじゃないか。文芸雑誌って「そういうものを求めてる人」のために少部数で発行できるという点では最適のメディアかなと思うんですけど、なかなかそううまくはいかないんですかね。

 この「求めてる人のところに届かない」問題、文学がどうこういう以前に、いまのネットにおけるコンテンツ全体の問題のような気がします。