俺の年齢についてはさておき、周囲に50歳前後、あるいは少し越えたくらいのおっさんたちがわりといます。でまあ、アラフォーあたりからそうじゃねーかなーとは思ってたんですが、50歳越してくると、現代という時代についていけているかどうかで露骨なほどの違いが出てきます。直接にはITの波に乗れたかどうかってことなんですけど。

 もちろんそうしたおっさんたちでもLINEは使ってます。ただ、LINEしか使えない。あとは店のほうが設定してくれた交通系電子マネーだとかそれくらい。ただ俺の周囲だとスマホすら使ってないおっさんがけっこういる。

 まあこの段階で情報源がテレビかラジオ、雑誌などのメディアに限定されるわけなんですが、そうしたおっさんたちはほぼ例外なく活字が読めない。新聞も危うい。眠くなるらしいです。なので日々の業務で文字による伝言という手段がほぼ使えない。そうしたおっさんたちがけっこう大量にいると思います。都市部ではどうか知りませんが、中途半端な田舎のこのへんでは。

 いまのお若い世代の方々には想像もつかないと思いますけど、それらのおっさんたちが十代のころには「本を読むやつ=根暗」という図式が成立していて、まあいまでいう陰キャということで、陰キャはある程度カースト底辺に近かったわけなんですが、とにかく「勉強をする」「本を読む」「なにか難しいことを知ってる」というのが致命的に人間としてなにか劣っているような存在だという扱いが一時期存在していました。なのでまあ、俺としてはそれらの人々のことを「自業自得なので思うぞんぶん時代に置いていかれて地面に這いつくばってて若者にバカにされて野垂れ死んでください」と爆笑してさしあげてもかまわないんですが、さすがにこの年齢になるとそれで爆笑する気力もだんだん失せてきます。ざまぁwwww

 

 であのー、俺の私怨は別にいいんですけど、学歴の有無に関係なく、またIT化の波に乗れたかどうかとも無関係に、平然と時代と歩調をあわせるおっさんたちってのも確かに存在するんですよ。なおおばちゃんは、特に子供がいる場合は、子供を通じてほぼほぼ時代にあわせてくるし、なによりあの人たちには「現代」というものに対する拒否感が少ないです。無学なおっさんたちは、現代についていけなくなると「魂が入ってない」とか「軽薄な時代だ」「昔はよかった」などと言いだすので手に負えません。

 で、ついてくる人の特徴なんですが「この世界は学ぶことが可能なものだ」という感覚をごく自然に持ってるんですよね。情報源が人であれテレビであれなんであれ、それは自分と同じ人間のいとなみであり、拒絶する理由もなければ理解できない理由もない。天然でこういう人って確かに一定数存在してるんです。

 無学なおっさんたちに共通しているのは「自分なんかには学ぶことはできない」という諦めの感情です。最近、ちょっとした理由でそうしたおっさんたちにファストファッションの概念を説明しなければならなくなったんですが、最初から「いまさら学んでなんになる」の壁にぶち当たる。そうはいってもあんただってユニクロで買い物したことあるでしょって話なんですが、彼らにとってユニクロとは個別具体的な◯◯店であって、チェーンではない。たくさんの店舗があってそれを利用している人がたくさんいると言ったところで「みんなフリースなんだろ」というところで止まってしまって、それ以上のことは頑として理解しようとしない。たぶん諦めがどこかの時点で変質して「最近の軽薄な風潮」という判断に入れ替わっていて、それを学ぶことが敗北に近い感覚を与えるんだと思います。構造的に自分を守るようにできてしまっている。

 最近、どちらのご家庭も教育に非常に熱心でいらっしゃるようなんですが、別にそれじたいはいいことだと思うんですが、同時に思うんですよね、教育の役目ってなんなんだろうって。50歳を越して「新しいものはすべて否定する」というおっさんの現場を見て思うのは、教育って「世界は学びうるものなのだ」という知識に対する楽観的な信頼を与えることなんじゃないか。もちろんその中身には国語能力だったりいろいろあると思うんですが、結局は「学び得るのだ」ということさえ信じていれば、どうにかなるんじゃないか。そしてそれは何歳になっても決して終わることはない。もっと極端にいえば「世界は日々に新しくなっている。なるほどそういうものだろう」という受容さえあれば、けっこう年食ってもうまくやれてしまうものなんじゃないか、そんなことを思ったりするのです。